HigherFrequency  DJインタビュー

ENGLISH INTERVIEW

Frogman  Column vol.2

連載第2回目の対談は、KEN=GO→氏のレーベル・パートナーであり、アニメの脚本家、構成作家としても活躍する、佐藤大氏。そしてレーベル発足前からの長い交流を持ち、ベテランDJ、テクノ外交官とも呼ばれるToby氏を招いて行われた。 日本、海外での様々な出来事の中に、現在各分野で活躍するクリエイターやアーティスト達が登場する興味深い話、そして現在の心境とそれぞれのこれからについて話しを聴いた。

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HigherFrequency (HRFQ) : 最初に皆さんが出会った頃の話を教えて下さい。

佐藤大(以下D) : 俺が覚えてるのは原宿のMasqueradeでのパーティーの後、朝方ガードレールのところにたむろってたら、Tobyちゃんがフライヤーを持ってきたんだよね。

KEN=GO→(以下K) : Tobyちゃんいつもパーティーでは最後までいて、エントランスのところでニコニコして踊りながらフライヤー配ってる、すごく気のよさそうなおにいちゃんって感じだったなー。

Toby(以下: T) : 色んなパーティーに関わってたからね(笑)。

D : 髪も長くってね。

K : DJは始めてたの?

T : ちょうどDJ始める前か直後くらいかな? みんなと遊び始めたのって多分93年位で、ドクター・モテがGOLDに来て、同じ年の秋にドミニク・ウージーとオラフが来て、その時にテクノ好きな人は実はいっぱいいるんだって思ったんだよね。それまでテクノに関しては孤独な戦いかな、と思ってたんだけど、あの時の六本木のパーティー以来、何度も見る顔がいることがわかって、その中に健吾君や大ちゃんがいたんだよね。

K : モテ、GOLDでやったよね! どうしてモテだったの?

T : 当時有名なDJの中で僕が一番仲がよかったのがモテだったから。

K : 皆で<LOVE PARADE>行こうって話をする随分前だよね。

T : 全然前。東京でテクノが認知されるかされない位の頃。まだYELLOWがオープンして、一年も経ってないし、K..U.D.O.さんのZeroというパーティーしかなかった。CAVE(現Module)でもずっとパーティーやっててさ。翌年YELLOWが外タレを呼ぶようになって、そういうパーティーのフライヤーを配ってたりしてたんだよ。  それまで東京のクラブ・シーンって縦社会だったけど、君達に会うようになって、横の繋がりもどんどん大きくなってったって感じ。

K : 海外から戻ってくるときには、海外で知り合ったDJ達を日本に紹介しようっていう気持ちはあったの?

T : もちろん。せっかくいいリレーションが出来ていたわけだしさ。その頃東京のテクノ・シーンも少しずつ盛り上がってきて、みんなと知り合いになって食事に行ったり、いろんなことがつながっていったよね。その前後に横田(Susumu Yokota)さんだったり、石井君(KEN ISHII)だったり海外で活躍する、日本人としてはじめてのアーティストが出てきたしね。



K : 大と初めて会ったのは、当時やってた<Tokyo Gamers Night Groove>だよ。

D : 原宿のUltra Gooで田尻(智)さん、まりん(砂原良徳)、渡辺浩弐さんなんかが遊びに来てくれるイベントやってったんだよね。その前の年に取材で行ったマンチェの帰りに寄ったロンドンで、マーク・ウィガンとテリー・ジョーンズとロンドンで会って、ゲームとテクノでなんかクラブイベントやりたいっていうアイディアを話したんだよ。それは実現できなかったんだけど、イベントの名前(TGNG)は考えてあったから、当時原宿で洋服のブランドやってた友達と始める事にしたんだよね。だから俺は“こじゃれたWorld”出身ですよ(笑)。

T : 当時、健吾君も、大君もそうなんだけど、クラブの縦社会なノリばかり見ていた俺としては、それまでとは全く違う人達がクラブに来てるんだって思って、すっごく新鮮だったんだよ。

K : そうなんだ?

D : そういう意味でいうと、(野澤)現ちゃんとか、田中秀幸さんとかGOLDでVJやってたじゃない。スゲーカッコいいVJだと思って、声掛けたら『ウゴウゴ・ルーガ』やってる人だったみたいなさ(笑)。その当時CGのレンダリングに時間掛かるし、その間何も出来ないから、プチッとコンピュータのボタン押して、スタッフみんなでクラブに来てたらしい(笑)。朝方もうそろそろ終わった頃だろって帰ってくんだよね。だから俺にとってのクラブの楽しさは、音楽ももちろんそうなんだけど、人と出会う楽しみっていうのは大きかったですね。

T : 僕もそうだね。色んな人にね。

Frogman  Column vol.2



K : 94年の大晦日にマイク(ヴァン・ダイク)のパーティーやったでしょ? クラブ・クアトロでFROGMAN初のアルバム、『PULSEMAN』のリリース記念パーティーとしてやったよね。初来日で。あの時もTobyちゃんが呼んでくれたじゃない?

T : マイクはドイツで遊んでる時に会っていて、すごい仲良くなってたんだよね。その頃よく自分のDJでも彼の曲をかけててウケもよかったし、本人もすごく日本に来たがってたからね。

K : PULSEMANのパーティーで、(石野)卓球も出ていて、そこでマイクと卓球は初めて会ったんだよね。

T : そうそう。俺の車の中でマイクに電気グルーヴの「虹」を聴かせたんだよ。DJの最後にもよくかけてたんだけど、まだCDJも無い時代で、DATでプレイしてた(笑)。それで彼はすごく気に入ってドイツに持って帰って、それをMFSのマーク・リーダーが聴いて、電気グルーヴのドイツデビューに繋がっていくんだよね。

K : 今考えると、すごい話だよね。

T : マイクが初来日した頃って、第一次DJ来日ラッシュで、スヴェン(・ヴァース)とか、他にも親しいDJが同時に来ちゃうんだよ。

D : 反対に僕らも遊びに行ってたでしょ。ドイツとかフランスに。そうやって彼らと出会って横の繋がりが広がってったよね。

K : ドイツやフランスのDJたちも、最初はロンドンなりに遅れを取ってるって意識があったと思うし、ロラン(・ガルニエ)も本に書いていたけどフランスからイギリスまでわざわざDJやりに行ったり、遊びに行ったりしてるんだから、きっと同じなんだよね。だから初めて行った時、歓迎されたんじゃない? 日本から遊びに行くやつも珍しかったってこともあるだろうしね。逆に日本に来てくれた時は同じように歓迎したしね。

D : 自分の文化的背景みたいな、国みたいなものを…

T : 背負ってるっていうかね。

D : 僕らでやってたネットラジオ番組「Enter The Nation(ラジ@)」にしても、故人だけれども元週刊アスキーのプロデューサーであり、バンドマンで、コーネリアスの小山田君や瀧見さん達とも仲がよかった、佐々木さんという方がいて、その人の頑張りのパワーだけで、3年位続いたんだからさ。すごいゲストが、信じられないようなDJ MIXをしてくれるんだよね。

K : あのアーカイブはすごいよね。

T : テクノな人達だけじゃなくってオールジャンルですごい人達が出演してくれてるしね。

D : 草野(剛)君とか、神山(健治)監督とかね。そういえば、JEFF MILLSはすごいMIXしてくれたよね。JEFF MILLSとは、高校の頃の話とかしてね(笑)意外にボンボンだったとかさ。ドクター・シザーズはあまりに早口で通訳不能だったりとかね(笑)。

T : 政治の事とか、F1の事とか、アニメの事、テクノの事、色んなジャンルの事話してたよね。

D : ちょうど石野(卓球)君がFMで番組やってて、それはカッコよくってさ。ぼくらはAMテクノ番組みたいなノリを目指したんだよね。笑えるようなさ。

T : 当時テクノはクールみたいなアティテュードがあって、僕らはそれがあんまり好きじゃなかったからね。

D : いまだに時々クラブで「当時クラブに行けなくって、いつも番組を聴いてました」とかって声をかけられる事があるよ。

K : そういう意味じゃ、今でこそ、そういうラジオ番組の必要性があるのかもね。20歳未満の子達はクラブに入れないわけだしさ。

D+T : そうそう。

D : 僕がやってたのは、Gamers Nightやポリゴンジャンキーというパーティーでも深夜でなく昼から夜にやったり、今言うと格好わるいけど、FROGMAN RECORDSでもKIDS担当みたいなね。

T : でもKIDSは大事だよ。

K : そう。いつも入り口は必要だしね。

T : そうえいば、FROGMANと付き合うようになって、レコードはこうやって作るんだよって事とか、イベントとか、お仕事の話もすようになったんだよね。

D : 逆に僕らは、招聘や、オーガナイズなんかをTobyちゃんから学んだよね。だからエクスチェンジしてたんだよ。きっと。

T : そうだね。でも日本のレーベルの事務所の中で一番居心地が良かったよ。

K+D : (笑)

T : 曲を作り始めたのが10年位前なんだけど、最初マイクと一緒にやって、彼がやってたのを見様見真似で覚えてさ。ソロではないけど、KAGAMIの「Patch Pati」のリミックスが、初めて自分一人で作業したもので、だから自分の曲がレコードになってリリースされたのもFROGMANが初めてなんだよね。

D : あの頃は“エヴァンゲリオン”でもあるね。

T : そう。

D : 一緒にアニメ映画見に行ったりもしたよね、あの頃は。まさかつくる方に回るとは…(笑)。マイクとは『攻殻機動隊』を見に行ったよね。Tobyちゃんがストーリーを説明しようとしたら、「いや、原作読んでるから大丈夫」って言われたんだよね(笑)。

T : マイクを色んなとこ連れて行ったけど、やっぱビビッと来たのはあれじゃない? コミケ!

K : コミケ行ったよね!

T : マイクにしてみると、日本で一番濃い所に連れて行かれた(笑)。

D : あそこで買った同人誌のイラストが、彼のシングル『TOKYO TRACKS』のジャケになったっていう。レコード持って来て自慢してたこと覚えてるよ(笑)。

T : 彼は元々マンガも描くから、同人誌買ったりとか、スクリーン・トーン買ったりとかさ、何でそんなもん買うんだっていう(笑)。

D : あんだけ生まれる国を間違えた人も珍しいって感じだったね…。

T : 今でこそ海外の人が日本のアニメを好きなのって当たり前だけど、マイクはそういった点ではやっぱり先を走ってたね。

D : ダサイものをカッコイイっていうのが早かったんだよね。だから若いコ達にも勇気を与えたんじゃないかな。あれ、ポジティヴ・テクノって言ってたよね、あの頃。

T : ポジティヴ・テクノだって! あ、俺が言ってた?(笑)

D : Tobyが言い出したんじゃん。すごいジャンルだなーと思って、時代だわー、と思ってさ。僕らがやっている様な音楽の事をそう呼んでたんだよね。

K : 前向きで、てらいが無いっていうか。正義の味方が出てくるようなって説明してたよね。正義の味方テクノ(笑)。

D : 本気でポジティヴ・テクノね。すげー時代だなー、と思うよ、しかもそれがちゃんと成立してたからね。若いコ達が無邪気にシャボン玉で遊んだりしてたりさ。

K : さっき話に出た、昼間のイベント、ポリゴン・ジャンキーも凄かったよね。ゲーセン用の「ヴァーチャ・ファイター」とかたくさん置いてあって、プレイし放題だったよね。

D : SEGAに協力してもらったから、それこそ水口(哲也)さんとか、あの周辺の人達と遊んだりして。

T : あ、そうなんだ。うわー、狭い世界。

K : その辺が無かったら、後の『Rez』とか無かったのかもしんない。

T : それでFROGMAN経由でソニーの人達と仲良くなって『DEPTH』みたいな音楽ソフトでいろいろ遊ばせてもらったり。

K : そういえば、ゲームのプロモーションとしてライヴやったりしてたもんね(笑)。

D : 白いツナギ着て突っ立ってステージ。あれはポリシックスより早かった! グラストロン被ってゲームの音源だけでライヴするっていう。タイチ(TAICHI MASTER)君メンバーだったよね。

K : メンバーだったな、そう言えば(笑)。この前の対談では僕ゲーム興味無いですとか言ってたけど(笑)。

D : 嘘だよ! 全国ツアーで東名阪回ったんだよ(笑)。しかも彼、バンマスだよ。あとのメンバーは、全員ゲーマーなの。ゲーマー4人とDJのユニットだった。

T : あれ今の方が受けるんじゃない(笑)。

HRFQ : はじめて<LOVE PARADE>に行った年は?

K : Tobyちゃんは、91年位でしょ?

T : そうそう。

K : 僕らは、94年ですね。

T : あの年、FROGMANのバナーをさ、トラックに付けるといいよって、主宰者のモテが、トラック一つ貸してくれたもんだよね。

K : そうそう、奇跡的じゃん。

T : 今からは考えられないもんね。

H : すごい話ですね。

K : あり得ない。その時は全然訳分かって無かったけどね。スタイリストの友達にバナーを作ってもらって飛行機で持ってった。パレード自体何やってるかよく知らないのに(笑)。ビデオで断片的にTobyちゃんに見せてもらって、何となく知ってる位だったんだよね。半信半疑なんだよ(笑)。だって、10万人が昼間路上で踊ってるなんてあり得ないじゃん。そうしたらほんとにそんな光景が…。

T : 異次元だったよね。その三日間はベルリンが全て塗り替えられちゃった、それ一色に。あの頃はトラック乗らずに歩いていても楽しかったね。歩きながら乗っけてもらって、また次のトラックに遊びに行ったりとか。今じゃとても出来ないけど。

K : 皆で行った最初の年がそういう事が出来た最後の年だった。一番いい時だよ、あれ以降もう乗り換えなんて不可能。

D : 俺なんて後年、頭をBB弾で撃たれたんだ。ヘイト・パレードだよ。その次の年から行かなくなったんだから。

T : 危なかったよねえ? 97〜8年だね。

D : 多分あれトップ人気のスヴェンのトラックに乗ってたからマズかったんだよ。アジア人ってことで狙われたんだよ。

T : あれはオチたね。

D : ただ、場所が繁華街から移って、天使の塔の下でファイナル・パーティーをやるようになって、あれから数年はすごかった。最初の年はそんなイベントがあるのも知らなかったし、感動して日本に電話かけたくらい。

K : その次の年かな? 100万人集まって、卓球がそこでDJやったんだよね。あまりのできごとに、ちょっと泣いてたでしょ。

D : でも94年のトラックで、「人生」のハードフロア・リミックスがかかった時も、石野くん泣いてたような(笑)。その横で瀧さんはめっちゃ踊ってるみたいな(笑)。

K : あのときは、車が揺れて針とんじゃうから、DJブースじゃなくて、あらかじめ自分達で作って行ったDATで音流したんだよ。卓球は、「ここで自分の曲がかかっただけで俺はもう満足だ」って言ってたけどね、その時は(笑)。信じられないけど、今となっては(笑)。

T : あれ、先頭車両だったから、よかったよね。

D : モテのトラックだから1号車で、クーダムの角を曲がった瞬間、本当に死ぬと思った(笑)。それまでビデオしか見てないから半信半疑でさ、そのビデオの年はまだ、5万人とかだったんだよね。角を曲がるまでは音を出しちゃダメなんだけど、角を曲がったとたん、ガーンと音を出したとたんに、10万人の波がうねってるのが見えて。

K : トラックに乗ってたサウンド・エンジニアの、髭の生えたZZトップみたいなオッチャンがすごいいい奴でさ。角曲がって音がフルで出した瞬間に「だろ?」みたいな顔するんだよね(笑)。 あの時、できたばかりのC.T. Scanのレコードをプロモで配ろうって持ってったんだけど、あまりに感動してほとんど配らず、トラックに忘れちゃって(笑)。俺はみんな帰った後に飛行機遅らせてド田舎のレンタカー屋の倉庫まで取りにいったんだよね。苦労して作ったアナログだから、どうしても諦められなくて。そしたら、そのオッチャンがちゃんとレコード保管しておいてくれて…。

D : 今話しただけでも泣けて来た(笑)。

HRFQ : どの位時間をかけて練り歩くんですか?

D : 半日はかかっちゃう。もうモーゼみたいにさ、音楽と共に人の波が割れてくんだから。しかもあらゆる鉄塔や車の上に人が乗ってて。そこに乗ってる奴らと「イエー!」みたいに挨拶して。どうやって登ったんだとか、どうやって降りるんだとか、トイレどうするとか、色んな事考える余裕も無い状態(笑)。

K : むしろ「次回は、あれやってみるかな?」位の(笑)。

D : 僕らは質素なトラックだったけど、ミスDJAXとか毎回すごかったね。<LOVE PARADE>なのに戦車みたいので来て。

K : でも、あの頃まだ広告とか無かったから、みんな手弁当だったよね。

T : トラック出す事自体にお金かからなかったしね。今じゃ、保険とかガードマンとか色々かかるからね。

K : そうそう。次の年からすごい金かかるようになった。今度は自前で参加しようって事務局に話をしたら、事前申請でいくらとか、ガードマンを何人雇えとか、契約書にサインしなきゃいけないとか、何m以内に人が近寄ったらダメだとか、すごい厳しくなっていて諦めたんだよね。

T : 現地で動いてくれる人がいればね、可能性あったかもしれないけど、そこまで出来なかったし。

H : 初めて<LOVE PRADE>に行ったメンバーを教えて下さい。

K : ヨコタ(・ススム)さんもいたし、それから当時のFROGMANメンバー、野田(努)さんもいたし、石野卓球、ピエール瀧、CISCOの星川さんとか、全部で10人位かな。

D : 待ち合わせはジーゲスゾイレ(戦勝記念塔)でっていうのを、日本で言ってるんだから(笑)。石野君との待ち合わせもそうで。ロンドン行って、当時アンダーワールドのダレンが回してるハコで偶然会って、じゃあ次はドイツでって言って別れる(笑)。で三日後位にドイツで会って…とか。

K : そういえば、キミ、帰りだか行きだか、飛行機の席の隣がプロディジーだったんだよね。

D : そうそう、サインしてもらったりして。「<LOVE PARADE>行くんでしょ?」って。「俺も<LOVE PARADE>行くんだよ、東京から」、「バカだな、お前」とか言われて(笑)

Frogman  Column vol.2

HRFQ : その後、みんな各々に活動していく訳ですよね。FROGMANのレーベルのリリース的にはどういう流れですか?

D : 94年の4月にC.T. Scanが出て。その後、順調にアナログをリリースの予定が、すぐに狂った。川崎クラブチッタでやったパーティーは大赤字になるし、最初の2枚がソールドアウトで調子に乗って、次の2枚はいきなりプレス枚数増やしたら、半分くらい余ってしまった。

K : その年の暮れに2枚組アナログで出した『PULSEMAN』が、表記の問題で税関で止められたり(笑)。もう翌年には、ソニーテクノとか、雑誌エレ・キングとかスタートしてるから激動の時期だね。

T : で、その次の年に野外で<Natural High>があって。俺は参加出来なかったんだけど。

D:あの時の事忘れられないよ。イシイ君があまりの暑さでグニョグニョになったレコードを見せてくれて(笑)。石野君とかも死にそう。レコード置いておくだけで反ってくの(笑)。針があんまり飛ぶもんだから、曲がったレコードをぎゅうぎゅうのケースに入れて無理やり平らにしてかけたりして。面白かったですよ。

K : 野外でのイベントってそれまで無かったから、暑さ対策が不十分だったんだよ。

D : あれは、夜で終わりだったけど、あの時のデリック(・メイ)の写真すごいいいのあるよねー。いいイベントだったな。

K : 最後、雨降って来てね! その後アフターを代々木公園でやったじゃん。

D : あー、やったやった。発電機盗んで(笑)。

K : 盗んでって、ちゃんとレンタルしたんだよ。無許可でDJブース作って、<Natural High>出演の有志DJ、卓球とかフミヤがでてやったんだ。完全フリーで、でも客は100人いなかった。

D : いない、いない。50人位? 小さいフライヤー撒いたんじゃなかったっけ?

K : そう、あんまり人来ちゃうと困るからって。

D : 当時は、まだインターネットも携帯も無かったけど、ウェアハウス・パーティー探すの楽しかったね。どこにも住所が書いてないフライヤーとかね。六本木を歩いてると貼ってあったもんな。で、破って電話かけると外人が出て…。

K : なんか、そういう「山?」「川」みたいなのあったね(笑)。ここにかけろ!とか。

D : で、行くためにハガキで登録しといてさ、そうすると怪しい手紙が来たりね。全然知らないディスコとかレストランが占拠されてて、近くに行くとだんだん音が聴こえて来てね。「ここなんじゃねえの?」とか思いながら。ドキドキしながら遊びに行ってたね。

T : あの頃はどこでも行ったね。今は固定されてるからね。

K : それこそ六本木の地下の中華料理屋とかさ、すっげー音悪くてさ。どこでやってても酷かったじゃん、針飛んだり電気落ちたりとか普通だったから。

HRFQ : ちょっと何かが変わって来たなと思ったタイミングってありますか?



T : 徐々にだからね…。昔はクラブって、そこに来てるクールな大人と友達になりたいっていうのがあってさ。今のクラブって大きくてイベント化しちゃってるから、そのクラブのお客がコンテンツじゃないんだよね。その違いかな。小さいクラブだとまだそういう感じがあって。今だとループかなあ。

D : ループは昔のマニアックっぽい感じだよね。

T : 昔はIDチェックも無かったから、未成年でも結構入れちゃったりしてそれが楽しかったんだよね。

D : KAGAMIなんかは、真面目だからマニアックの日曜の朝から来るっていう。

K : それはさ、一回学校のジャージ着て行って断られたからって聞いたけど(笑)。

T : だめだよそれ(笑)、それは無理だよ。KAGAMI君らしいけど。

D : でも、大人達だけのクラブから変えていったのは、俺達自身なんじゃないかって気がする。テクノを分かり易くしたり、楽しくしたり、広げようとしたりした結果に自分達がシーンに食わせて貰ってたっていう感覚だったよね。

T : それはしょうがないよね。小さいものだから大きくしたい、で、お金とかも絡んで来て、何とか商売に繋げたい。あと、携帯だ、CDJだ、ファイナル・スクラッチだってテクノロジーも進化して。そうやって便利な物、便利な物って手を出して行くと本質が変わっていっちゃうのはしょうがないことだよ。

D : 俺なんか最近、逆にまたレコード買うの大変になっていいなー、なんて話をしてて(笑)。

T:レコードって手間暇かかってるからいいんだよね。CDとか配信っていうのはパッと買えて、その分飽きやすいっていうさ。レコードは買いに行くのも苦労するし、値段も高いし。

D:保存するにも場所とるしね。

K : だからプレシャスなものになって行くって前向きに考えればいいのかなって気がするよね。前は、2年、3年…は大袈裟かもしれないけど、すごいいいレコードがあったらずっと使ってたじゃん。それが毎週毎週使い捨てでさ。

D : Q'HEY君が使い続けるから、なかなか寝かしどきが回って来ないって話してたよ(笑)。「Love Inc.は寝かそうよ、一回寝かそう」みたいなさ。でもMAYURIさんとQ'HEY君がずっとかけ続けるから、古くならない(笑)。

T : 俺最近よく掛けるよ。

K : 前は使い捨てじゃなくて、いい曲があったらそれはずっと大事にしてたじゃん。2枚買ったり。ネットになると在庫も持たなくていいからものすごい玉石混合になっちゃって、探すの大変じゃない今? だから逆に、盤でいいものだけが出て来るなら、ある意味いいかなって気がするよね。

D : クラブにしてもこれだけ潰れちゃうと、探すのが大変になって、若い連中が占拠してやりだすだろうから。ジャンルはテクノかどうかはわかんないけど。きっとそういう事が起こるんだろうなと思うな。

HRFQ : メジャーなパーティー以外にも、若いコ達がアンダーグラウンドなパーティーをたくさんやっていますね。やはりそういう人達が次のシーンを作って行くのでしょうか?

K : そうなんじゃない。そういう所からしか出て来ないしね。

D : ただ間違っちゃいけないのは、僕らがFROGMANはじめたのは、全員二十歳超えてて、ある程度のお金も持っていて、その上でやってたんですよ。ライターが3人いて、メディアがあって、音楽作ってる友達も一杯いて、はじめた瞬間からアドヴァンテージがあって、その上でやっていたという事。ゼロから作ったというのは、奇麗事で、僕らは一つの経験を集合体としてやっただけだ、という感覚を伝えないといけないのかなと思う。僕ら雑誌のライターだったから、「原稿書くから、レヴュー載せて!」っていうアドヴァンテージを利用しまくってたからさ。そういう所が見えないといけない気がするんだよね。それまで野田さんが持ってたパワーもそうだし、もちろん電気グルーヴのお客さん達がいてそれを引っ張って来たっていうのもあったし。 レコード屋やりながらレコード・レーベルやる人もいるし、ともすれば共倒れするような危険性をはらみながらも、ストレートにやっていくようなやり方もある。俺達はそうじゃないやり方で、ゲームやアニメで稼ぎ、レーベルをやる様な連中もいたって事を、言っておいた方がいいのかな、って気がする。

T : そう。その辺がFROGMANの特殊なところなんだよね。死語ですけど、マルチ・メディアだったからね。

D : マンガもゲームも何でも入れちゃえみたいな部分が、当時ある層にとってはすごく目の上のタンコブ的なものだったわけでしょ(笑)。

T : でも音楽とファッションを上手く取り入れてる人達もいる訳だしね。

D : 音楽はホントはそうなわけでさ。文化的な物とくっついたりするのが当たり前のことなんだけど、テクノはストイックだったからね。

T : そうだよねー。

D : 一時期悩んだよね。俺らがやってるのは勉強テクノなんじゃないかって。

T : 何それ(笑)?

D : テクノ専門学校とか言って、それは逆のファシズムなんじゃないかって。こんな事教えなくても好きなら勝手に覚えるだろ、みたいな悩み。

K : 入りにくいからこそ、言葉にしたりとか、あの手この手で広めようとするみたいな事を努力すればする程、そうじゃねえんだ的な意見もあったわけだよね。フロアで感じればいいんだよ的な事とか。

D : VJすら「いらねえ」みたいな事言われてましたから、当時。僕ら自身も「アナログしか出さねえんだ!」みたいな事も言ってたし。そういう若いバカな部分と、大人のしたたかさが両立してたから、きっと鼻につくと思った人がいたと思うけど。でもそのしたたかさが、今の若いコ達に無いなあと思うんだ。ピュアな気持ちで始めて、ピュアだから喧嘩して別れちゃったりするような話を聞くとね。もっと目的に対して違うアプローチの仕方があってもいいんじゃないかな、っていう気はする。

T : 今は簡単にレーベルを始められるじゃない? 特に配信オンリーだったら。だから簡単に諦めちゃうっていうかさ、ダメージが少ないでしょ。昔は、レコード売り切らなきゃとかCD売り切らなきゃって、そりゃ一生懸命になるよね。

D : なるよ。目に見えた借金だからね(笑)。在庫がドーンとあったりしたら。

T : 腐らないからまだいいけどね(笑)。たまにレーベルやりたいって思ってる子達から「レコードはちょっと荷が重いから、配信からやります」みたいな相談されるんだけど、たいして曲持ってないのに、やりますって言ってもさ、ちょっと待ちなさいみたいな(笑)。

K : 昔は逆だったもんね(笑)。出したい曲はいっぱいあったけど、金が無いからさ。今出せば間違い無く売れるって思っても、とりあえずこっちからやろう、みたいなね。無いのに先に箱だけ作ってもね。

D : なるほどね。簡単に出来ちゃうと、簡単に辞めるっていうのはホントかもね。

T:曲作るようになってわかるのは、やっぱり完成するまで時間かかるわけじゃない? そうすると他の人の曲もそういう目で見るし、ましてや僕のドイツのパートナーは、このご時世にヴァイナルのカッティングとマスタリングやってて。でも、彼のビジネスは右肩上がりなんだけどね。彼の作業を見ているとホント一日作業なんだよね、レコードのマスター切るのって。それからメタル・マスターが出来て、たいやき君みたいにどんどんプレスされてって、それがディストリビュートされてっていう、すっごい手間がかかってる事分かってるから、愛着が湧く。

D : アナログ渡されたら、気合い入ってる奴だな、って思うもんね。

HRFQ : 今様々な変化が起きているタイミングの中、何かしら面白いと思うような動きは見えますか?

T : はっきりしてるのは、どんなフォーマットでも僕はやりますよ、CDJだろうがヴァイナルだろうが。

D : だって、人を踊らせるっていうのが目的だからね。

T : そうそう。だからそこまでこだわりは無いけど、国内にいる分にはヴァイナルでやってようかなって思う。まあ、流行り廃りは所詮、時間が経てば変わってっちゃうからね。今までクリック流行ってたって来年はどうか分からない(笑)。

D : だって、90'sリヴァイバルどころかさ、もうその後がリバイバルとして、いよいよ迫って来た感じがしてさ(笑)。俺が行ってた場所が歴史になりはじめたり、「やべえ、自分が歴史にっ、俺逃げないと!」って。自身が歴史化しないようにどうやって逃げるかって考え出しましたね(笑)。

T : まあ、みんなで遊んでた頃って輝いてた時なので。昔の友達が集まって昔の90年代のテクノとかかけると、何か違うんだよね。スピリットが入っているというか。

D : 原体験だからね。

T : 無意識で僕はDJでそれを伝えてると思うんだけどさ。それをずっと伝えられればいいんだけどね。素材は変わってっちゃうからさ。

D : でもさ、絶対影響はあると思うよ。俺、最近さ、Capculeとかの中田ヤスタカ君の曲聴いてると、絶対Tobyちゃんとかで踊ってたんじゃねーか?って思う位、正義の味方風な曲とかあってさ、もう一周しててかっこいいなと思って。

T : 俺がその辺で好きなのはPerfumeとか。

D : 俺も超好き。

T : ライヴ見にいって、握手してもらって(笑)。去年は、彼女たちに救われた(笑)

D : ホントは逆なんだよね(笑)。ヤスタカ君達の音っていうのは、Tobyちゃんとかがいなければ、今ありえないミックスだと思うんだよ。

T : 2007年の大好きアーティストは、元気ロケッツとPerfume。

D : 俺的にはカプセル・サウンドですよ、2007年は。PerfumeとMegちゃんの新譜と、あとCapsuleの『フラッシュバック』だっけ。全部バラバラで、全部いいな、しかも全部20年位前に聴いたような音だな、サイコー!って(笑)。でも、彼らはすごい無邪気にそれを楽しんでて。オールド・スクールとか思ってないし。くるりとか、スーパーカーとかは、こちらのシーンにも気使ってもらってるな、って気がするんですよね。

K : へぇ、ふたりともそんなに好きなんだ。俺は現象としてはおもしろいなぁと思うけど、Perfumeとかはかなり苦手なんだよね。なんか彼女たちが売れた後、つぎつぎ似たような女性ロボ声エレポップが粗製濫造されてるのもちょっとね。まぁ、そんなこと言ってるからダメなんだと自戒することもあるけど。リカルド・ヴィラロボス、レディオ・スレイヴ、マシュー・ジョンソン、マシュー・ディアあたりが一番のスターだろうというのは、客観的にやばいと思うし。そうなると、オーストラリアのVan Sheとか、ノルウェーの120Daysとか、全然接点ないけどなんかかつて夢中になったような色気をもってるようなバンドがおもしろいかなぁとかね。あと銀杏BOYZとか? どっちにしても、去年後半ほとんど音楽と向きあう余裕がなかったから、エアポケットみたいになってるのかな…。

D : 俺最近気が楽になってるんだ、音楽聴く事に対して。

T : 分かる。昔は何かレヴュー書かなきゃとか。

D : そう。襟正して、シーンに対して関わってる中での、プライドとか責任感みたいなものがあったけど、今もう全く無いんで。

K : そのほうが健康的ですね。

HRFQ : 最後に、今のご自身のモードと、これからやろうと思ってる事を教えてもらえたらと思うんですが。

T : 最初はプロモーターのハシリで仕事はじめて、DJになって15年なんですけど、最初の頃は3年やったら辞めようと思ってたの。フラれた女の子を見返したら辞めるって(笑)。

D : ポジティヴ・テクノの元祖とは思えない(笑)。

T : そういう憎悪の力を借りてここまでのし上がって来ました(笑)。その後、それまでにかかった時間とエネルギーを考えたら勿体なくて辞められなくなっちゃって。でもそれ以降は気楽になっちゃった。今はもう生活の一部だし。今DJとか辞めたら、気が狂っちゃうと思うんですよ、ホントに。それが自分の存在意義というか。だからさっきも話した通り、ずっとやりますよ。DJを、もしもやれなくなったとしても、この音楽、ダンス・ミュージックには関わって生きて行くんだろうなと。それが次どういう形になるのかは分からないけど。今ちょっと興味あるのは、この間、北海道のDJ講座で色んなメディアの人に会って著作権の話とかして。映像の世界でも大変革が起きてて、もちろん音楽の世界でも起きていて。誰が何を所有するのかってホントにあやふやになって来てるから、誰がお金を取るんだっていう。永遠の命題ですよね。そういう中で生きていかなきゃいけないんだろうけど。その中で、音楽だけじゃなくて色んなジャンルで自分に共通項を持った人が集まって、何か一緒にやれたらいいなと思ってますけどね。

D : 僕は自分の手で物が出来て行くっていうのが楽しかった。デモ・テープからお店、流通、売る人まで経験して来て、これはミュージシャンやレコード会社の人には経験出来ない事まで経験しただろうと思うんだけど、その事は自分にとって大きかったんだよね。じゃあこれからとなると、また同じ様な事をやるんだろうけど、それが音楽であるかどうかは重要な事じゃなくなりつつあって。今、丁度、俺が脚本やってる『FREEDOM』ってプロジェクトに関わってるスタッフ達は、20代中盤〜30代中盤なんだけど、新しいスタジオを作って新しい冒険をしているんです。それは今後20年のアニメの歴史を変えるような冒険と実験かも知れないんですけど、そんな血の気の多い若者達と一緒に仕事しているのが、今、すごく面白くて。その子達が次に何をやって行くのか、それを一緒に出来たらいいなと思ってるんです。相変わらず、音楽もいっぱい聴くだろうし、音楽と映像をどう組み合わせるのかみたいな事はずっとやって行くんだろうけど。ジャンルに捕われてるとダメだなっていう感覚が僕の中にはあるので。もう一回自分基準を戻したいなと。音楽聴くのがホントに気楽になったんで、色んな事を気楽にした上で、面白い事をもう一回探したいなって思います。

K : あるリスペクトしてる評論家ですごく音楽に詳しい人がいて、10歳位年上の人なんだけど、その人が昨年急に作曲をするようになったらしいんですよ。今までも音楽プロデュースしたり、自分でレーベルやってたりはしたことがあったけど、何か不幸だとか生活に大きな変化があって突然そういうアウトプットを始めたんだって。 俺は自分で音楽作れる訳じゃないので、編集者的に違う所にある色んなものをくっつけたり視点を変えたりする中から、何か新しいものが見つかれば面白いなと思っていたし、その人も裏方的仕事をやって来たわけだけど、その人のおかげで、そういう音楽への関わり方もあるんだなということに気づいたんだよね。だから、自分が今まで全然考えもしなかった事をやるっていうのもありなのかなって思っていて。今まで14年もテクノのレーベルっていう形でやって来て、それに一回ピリオドを打つっていう所で、また何か新たにはじめるいいチャンスだなという風に思ってるんだ。それが単に配信になるとか、フォーマットや名前が変わるという事だけじゃなくて、全然違う所で取り組むっていう事をやってみたいなって。フロアで踊ったりDJしたりというのを、いままでよりもっとストレートに楽しみたいなと思う一方で、10年20年かかってもいいから手に入れる表現みたいなものがあってもいいのかもと思ってちょっと模索しはじめたところです。

HRFQ : 有難うございました。



SQ presents FINE: Frogman “Cold Sleep” party

2008年01月25日(日) @ Unit _ 23:30 〜
Door : Y3,000 _ w/flyer : Y2,500 _ w/"FINE" CD : Y2,000
※"FINE: The Best of Frogman" CD持参の方1,000円Offの2,000円にて入場可。
Lineup : Frogman/U.S.B. All Star Artists!!
DJ & Live : Taichi Master, Hiroshi Watanabe (a.k.a. Quadra, Kaito), Kagami, Toby, Hitoshi Ohishi
Saloon (B3F)
Riow Arai, C.T. Scan (CMJK), Mexico (a.k.a. Jun Yamabe), Hulot, Hirofumi Goto, Susumu Yokota, KEN=GO→
Music : Techno

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