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Takashi Ishihara Column 02

[連載 : 第2回] K.C.& The Sunshine Bandがブレイクした背景

テキスト:石原 孝

アメリカにおけるソウル・ミュージックは、地域に根付いた音楽の特異性が顕著で、ほかの音楽ジャンル(ジャズ、カントリー・ミュージックほか)と比べても地域密着度がかなり高いと言える。有名どころでは、デトロイトのMOTOWN、シカゴのCHESS、CHECKER、メンフィスのSTAX/VOLT、そしてHI、都会派フィラデルフィアのPHILADELPIA INTERNATIONAL、ロサンジェルスのSOLAR等など、それぞれがその地域のソウル・サウンドの独自性を打ち出したスタンスで活動を行っていた。

そんな状況の中、70年代初旬にフロリダのマイアミ地域から登場したのが、もともとレコーディング・スタジオや卸商を営んでいたHenry Stoneである。彼は、周辺のインディペンデント・レーベル(CAT、GLADES、T.K.、ALSTON、BLUE CANDLE、KAYVETTE等など)を一つの集合体に纏めT.K Productionを設立。その社長として多くのヒットアーティストを輩出するようになる。

その第1弾が、George McCraeの「Rock Your Baby」で、1974年7月13日付けビルボード誌で見事ナンバーワンとなったこの曲のヒットを契機に、全世界発売の為に大手メジャー・レコード会社RCAレコードとディストリビューション契約を締結、やがてT.K Productionの名前は全世界に知られるようになる。その「Rock You Baby」の作詞・作曲・プロデューサーを手がけたのが、他でもない、後にこの大ヒットグループのリーダーとなるCasey & Finch(ケーシー&フィンチ)のコンビだったのである。実は、このコンビにとってこの曲が最初のプロデュースだった訳ではなく、それ以前にもBetty Wright、Jimmy "Bo" Horne達に曲を提供し、かつプロデュースする事で彼らをヒットチャートに送り出すなどのキャリアを持っており、その事からも既にこの二人は、MOTOWNにおけるLeiber & Stoller(リーバー&ストラー)と同じような役割をT.K Productionにおいて担う存在になっていたと言える。

元々、これらのアーティストのバックで演奏もしていた二人は、ソングライター/プロデューサーとしてのキャリアを十分に積んだ後、ギター、ドラム、コンガの3人の黒人アーティストを集め、自らのバンドK.C.& The Sunshine Bandをスタートさせる。そして、「Get Down Tonight」が1975年8月30日付ビルボード誌で全米ナンバーワンを獲得したのを皮切りに、日本におけるオリコン誌総合チャートでも1位となった「That's The Way」が、1975年11月22日付のビルボード誌でナンバーワンを獲得。以後、1980年1月5日付でナンバーワンとなった「Please Don't Go」に至るまで合計5曲の全米ナンバーヒットを送り出すという非常に大きな成功を収めるに至るのである。

このグループの日本での成功の原因は、まず、木造のスタジオで制作された温かく乾燥したサウンドにあったといえる。これは、NYやLAの計算された高級スタジオでは絶対に出すことは出来ない、まさに太陽の温もりが伝わる、手作りで人間味溢れる爽やかなサウンドであり、これが日本の音楽ファンのハートをがっちり掴んだのが大ブレイクの一番大きな理由であった言って間違いないだろう。

そして、シンプルで痛快なメロディーと、覚えやすい歌詞、インパクトのあるフレーズもブレイクの大きな要因であったと思う。特に誰もがすぐに口ずさめるサビの部分はヒット・ポップスそのものであり、前回の稿でも述べた通り、当時なかなかディスコ・サウンドをオンエアしてくれなかったラジオのディレクター達も、彼らの曲に関してはヒット・ポップスとして他のディスコ曲とは比べ物にならない位にオンエアーをしてくれ、結果的にディスコとラジオ双方におけるの頻繁なディスク・プレイが大ヒットに繋がったと記憶している。

さらに、当時このグループのA&Rをしていた私自身の印象として一番強く残っているのは、何よりもこのソウル・バンドの中心人物のCasey & Finchという二人の白人が持つアイドルのような甘いルックスが、ディスコにも行った事のない多くの女子中高生たちの興味を引いたという事である。実際、そのアイドル性に惹かれた彼女たちからの問い合わせは非常に多く、特にCaseyの人気は抜群で、このジャンルではあり得ないファンクラブが自然発生的に発生するなど彼の人気度は非常に高かったと言える。なにしろ、当時ではディスコ系アーティストは一切取り上げてくれなったロック誌までが、K.C& The Sunshine Bandのアーティスト写真については掲載してくれたくらいだから、いかにこの2人の人気度が高かったかが分かるだろう

20年経った今でも「That's The Way」他、彼らの曲は非常に多くの人に支持されていると聞いているが、皆さんもこれらの話をお聞きになって、いかに彼らの曲が、邦楽のヒット曲をも凌いだ怪物的ヒットであったかがお分かり頂けると思う。私自身にとっても、レコード会社での最初のヒットアーティストであった為、とても忘れることの出来ない大切なアーティストである。

石原 孝プロフィール
1948年生まれ。1970年日本ビクターに入社。RCAレコードのDisco/Soul部門の担当A&Rとして、K.C.&The Sunshine Bandをミリオンに導く傍ら、DJならば誰もが一度は通った事のあるはずの名門、Gil Scott Heron、Gato Barbieri、Lonnie Liston Smith等を擁した Flying Dutchmanレーベルも担当。その後80年代にはアルファ・ムーン設立に参加し、現在はWarner Music Japanにおいて取締役として、そして、山下達郎・竹内まりやの所属するMOONレーベルのA&Rとして最前線で活躍中。レコードコレクターとしても我々の射程圏外はるか彼方に居る存在で、所有枚数は本人いわく「約10万枚」。まさに音楽の虫ともいえ、現在のレコード業界では異端児といえる存在である。

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