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Hiroshi Watanabe

Hiroshi Watanabe Column

Text & Photo : Hiroshi Watanabe

Hiroshi Watanabe Interview

こんにちは。ワタナベヒロシです。今回はちょっと自分自身の過去を振り返り、今に至る KAITO, TREAD, HIROSHI WATANABAE プロジェクトへの流れを追ってみたいと思いますね。



折角なので、出来るだけ自分をさらけ出そうと思います。まずは、プロフィールだけでは書けない細かなことから。

僕は1971年に新宿の落合という場所に生まれ、その翌年、妹が生まれるタイミングで、車の排気ガスから来る僕の咳という理由もあって、埼玉の戸田という荒川の流れるのどかな場所へと引っ越しをしました。庭の付いている借家でしたが、周りは辺り一面田んぼで、すぐ隣に池を使った釣り堀があったりと、それはそれはのどかな所で、新宿の生活から一気に自然との触れ合える場所へと移ったこともあって、僕は大はしゃぎだったらしいです。ただ、生まれた地というものは、心の奥底に眠るように潜在しているもので、のどかな風景も僕にとっては当然ながら心地よく必要なものではあるのだけど、何故か都会の匂い、空気、ぎすぎすした景色への思いや無意識な親近感を、僕は幼き頃より感じていたものです。(そして、この思いは僕の"MATRIX E.P"という作品へと繋がっていきます。ジャケットで使用した写真は、僕の生まれた都市、新宿。その情景を自分の生まれた地と照らし合わせたもので、それによって作品への思いをより一層強いものへと作り上げていったというわけです)

それからノビノビと幼き時を過ごし、音楽家の両親を取り巻く様々なジャンルの面白い人たちを見ながら育っていくのですが、僕が得た影響というものはこれだけではなく、小学校で出会った担任の先生の存在も書かずにはいられません。小学校の3年と4年の担任だった金子先生という方でしたが、今思うと、この先生は小学生の担任にしては独自の教育法を見出していた方で、とにかく絶対の信頼を得ていた人気のある先生でした。なんの授業の時だったのか忘れましたが、先生が大きなラジカセを突然持って教室に入るや、「今から素敵な音楽をかけるから、みんな目をつぶってじっくりと聴きなさい」と言い、KITARO の"シルクロード"のアルバム全部を、授業時間全てを使い延々と流したことがあります。その時に感じた僕の想いは、今でも実に鮮明に心に焼き付いていて、幼き僕らの空想の旅が見事に脳の中で作り上げられたことを覚えています。クラス・メイトみんなが聴き入っていたあの「しーん」とした情景も、いま思うと結構シュールで、インパクトがありますね。

とにかく、僕は父親の使うアナログシンセサイザーや、この時教室で目をつぶって聴き入った KITARO のシルクロードから得た音のマジックを、今に繋がる一生のヒントとして得たような感じがします。もし今、金子先生に会えたらお礼を言いたいですね。ほんとに感謝。それ以外の思い出としては、クラスで班に分かれ、創作する紙芝居を発表する時に、父親の使わなくなった大きなシンセサイザーをもらい、紙芝居のBGMを音で表現しようとカセットテープに吹き込み、語りと同時に流してクラスのみんなに好評を得たこともあります。先生もビックリしていたので、僕はかなり自慢げだったんでしょうね(笑)。今思うと、これが僕の音の創作活動の始まりだったと思います。

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もう一つ非常に大きなインパクトとしては映画スターウォーズ。スターウォーズ1のサウンドトラックの2枚組のレコード…。これは何度も何度もヘッドフォンで聴いたり、その当時父親が作った防音室の大きなスピーカーで大音量で聴き込んでいましたね。そもそも天体には非常に強い興味があったので、この映画そのもののインパクトは多大であり、映像も音楽も幼き自分にとっては強烈すぎるもので、聴いている時の宇宙への空想の旅は最高でした。思うに、音から来る空想、想像の世界、そして深く何処迄も続く、言葉では言い表せない世界といったものが、非常に密接に自分の脳の中でシンクロしていたのだと思います。そして、僕は自然に、そういう情景や空想の描ける音楽を作りたいと強く思うようになっていくわけなのです。だから、基本的には、今作り上げているオリジナルの世界観というものは、この当時から何も変わっていないということが言えるでしょう。「何をしたい」と思う前に、既に自分が勝手に強く感じる要素というものを誰しもきっと持っていて、特に子供は、自然に自分の生きたいと思う方向や環境を選ぶ力を持っている様にも思えます。大事なことはそれらを感じている姿を、親が見過ごすこと無く敏感に感じるかどうかということであって、これは自分が親となって、改めて実感していることですね。

そして、僕は小学生、中学、高校、と成長していくのですが、その間に、様々なプラモデル(戦車、戦闘機、バイク、車、ガンダム)を作ったり、手品にハマってクラス会で披露したり、小3の時、クラスの友達とタッグを組み女の子のスカートめくりをしたり(好きな子だと余計やってしまう!笑)、ファミコンにハマって視力を低下させてしまったり、自分で作り上げるタミヤのラジコンにもハマり、エアーガンにもハマって打ち合いしたり…!それ相応に男の子のやることは一通りやり、学校の仲間たちとバンドも組んで、ギターを弾いたり、髪の毛をオバさん御用達ハード・スプレーで突っ立ててライブハウスでイッチョ前にプレイをしたりもしました。あと、ハードロック、ヘヴィーメタル、スラッシュ・メタルと、ハードなモノが大好きだったから、ギターの早弾きの練習ばかりをしている時もありましたね。(もの凄い近所迷惑で親は苦情を受けていましたけど…笑)

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そして高校を卒業し、とにかくボストンへと旅立つことになるのですが、当時の僕は、それまで漠然と音楽というモノを目指して生きて来ながらも、では実際に音楽の何を一番やっていきたいのかということや、親の様に音楽で生きて行けるのかということに、異常なまでの不安感を抱いていたものでした。そんな中、ボストンの友達から聴かされたテクノから、今の自分を作り上げる人生のポイントを見出すことになるのです。ずっと中学、高校の時から作っていた自分の想い描く空想音楽と、ダンス・ミュージックのベースであるビートの疾走感というものが自分の頭の中で融合し、"コレダ〜!!!!"といった感じで、胸騒ぎがして無防備にのめり込んでいきましたね。実は、中学の時にヘヴィーメタルを耳にした時も同じ衝撃が走り、親に「俺は一生ヘヴィメタを愛し続ける」と宣言したことがあるんですけどね。ただ、この衝撃は虚しくもボストンにて消滅し、この時、本当の自分の進む道を見せられた思いがしたものです。

それからは、ただひたすらにダンス・ミュージックを作り続け、探究、追究、独自の世界観の構築を求め、ボストンからニューヨークへと拠点を移してからも、ずっとひたすら楽曲を作り続けました。初めは DEFCON5 という名義から始まり QUADRA、NITE SYSTEM、HIROSHI W、DEEP TRUST、KAITO、TREAD、32PROJECT と、微妙な方向性の違いを持った名義で作風を分けながらも、結果的にはその時々の多少の時代背景や自身の感覚の誤差があるのみで、振り返ると、自分のしたかったことやベースにあるものは何も変わっていなかったことに気づかされます。

もちろん、自分にとってDJをしていることは、非常に大きな意味を持っているのですが、これまでの下りをお読みになっても分かる通り、僕はクラブに行ってダンス・ミュージックにハマったのではなく、極めて音楽的に頭から刺激を受け、テクニカルに制作をし始めたところがありました。だから、初めの頃はどうしても自分の作品を聴いてみると、スタイルが同じだけで何か中身や本質的なものが違う、という思いがしてならず、ならばやはりDJをするのが一番早いだろうという理由で始めたのです。それは僕にとって正解で、レコードを回し、ミックスし、クラブで爆音で鳴らしながらお客さんを踊らせるという行為一つ一つが、ダンス・ミュージックの本質を探れる最高のきっかけとなり、僕なりに頭だけではなく、体でビートや音の流れを感じていくことが出来るようになったというわけです。初めてニューヨークのクラブでDJをした時は、実はあまりの緊張から動悸とめまいがしてフラフラでしたけどね (笑)。小学校時代のもう一つのエピソードに、母親の化粧道具一式と衣装を持ち、6年生のクラス会でたった一人で歌謡曲をバックに女装してみんなの前で踊り倒したことがあるんですが、このことからも分かるとおり、僕は実に目立ちたがり屋であるので、DJというポジションも非常に爽快で大好きな訳です。(笑)

と、今回はここまで書くかという位に自分をさらけ出してみましたが、今回のコラムでは、音楽や写真からだけではない自分の姿、本心、ワタナベヒロシという一人の人間をもっと知ってもらいたいという思いで綴ってみました。何をしてきた者なのか?どんな事を思ってきた人間なのか?どんな風に育ったのか?少しでも知ってもらうことで、より一層僕の作り上げる世界観、音、写真、そして、願わくば僕自身である人として、より一層親近感を感じながら作品を楽しんでもらい、そして深い理解と想いをより多くのみなさんと共有したいと心から願っている訳です。ではまた次回に!

HIROSHI WATANABE プロフィール

1971年東京、作曲家の父、ジャズピアニストの母の間に生まれる。 家の中には常に音楽が溢れている環境で育ち幼い頃より父親の使用するシンセサイザーへと自然に興味を持つ、それが現在の活動に繋がる原点、彼自身の独特な 音世界を創作するスタート地点となるのである。高校卒業後渡米し、ボストンのバークリー音楽学院にてMUSIC SYNTHESIS(シンセサイザー)を専攻。卒業までの刺激的な留学生活の中でテクノ、ハウス・ミュージックと出会いニューヨーク行きを決意する。 99年6月から本格的に日本に拠点を戻して以降は GACKT、松田聖子、パフィー、篠原ともえ、浜崎あゆみ、Sing Like Talking、星野晃代、CANON、PENICILLIN、工藤静香、小松未歩、meg、曽我部恵一、JAFROSAX、等々数々の日本人アーティストのリミックスを手掛け、資生堂、メナード、日新フーズなどのCM音楽制作、いしだ壱成主演のTVドラマ「ピーチな関係」への楽曲提供、また2001年、 2002年の秋に開催された新鋭のファッションデザイナー FRANCK JOSSEAUME 『HEART ATTACK』 Spring/Summer Collection 用楽曲を製作、2002年夏には現在日本を代表する舞踏家”HIRO TATEGATA”とのコラボレーション「TRYOUT2002夏/汚れなき痴人」で TATEGATA 氏のダンスに自身の持つ様々な音楽手法を取り入れたサウンドトラックを制作手掛けるなど多方面で活動している。

最近ではグラフィックデザイナーの北原剛彦氏とプロダクション「norm」を立ち上げ、2人のコラボレーションによる新名義“TREAD”で2001年の夏より現在に至るまでに4枚のアルバムをリリースする。同年の夏にはドイツ、ケルンにあるレーベル”KOMPAKT”より新たに KAITO という名義で 『BEAUTIFUL DAY』 『EVERLASTING』 『AWAKENING』 を立続けに発表し、02年秋にアルバム 『SPECIAL LIFE』 03年冬に 『SPECIAL LOVE』 をリリース。02年 からはヨーロッパにも活動の場を本格的に広げ、バルセロナ”SONAR Music Fesfival” ドイツのケルン”POPKOM”、ベルリン、スイス”VISION FESTIVAL”などでDJ、ライブを行う。また同02年より本格的に写真家としても活動を始め、渋谷”seco bar”青山”loop”といったクラブ・スペースや青山"eel's bed ギャラリー"にてより本格的な個展 『TINY BALANCE』 を開催、04年3月には青山"Sign"ギャラリーにて個展 『HEART to HEART』 を開催。更には音楽のフィールドを舞台音楽への世界へと広げ、03年末に岸谷五朗氏プロデュースよる森雪之丞氏のポエトリーリーディング 『POEMIX』 にオリジナル楽曲制作、04年春には辺見えみり主演、鴻上尚史氏の新作舞台『ハルシオン・デイズ』の楽曲制作などを手がけている。


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