これは音楽にかぎらず、芸術と呼ばれるもの全般にあてはまることだけど、作者が事前に設計した範囲に収まるようなものは実はたいしたものじゃない。優れた芸術作品は、それ自体が作者の意図を超える。その「意図を超えた状態」になってはじめて、その作品には「自由」が与えられるのだと思う。
今年生誕100年を迎えふたたび回顧されている岡本太郎が遺した、かの有名な「芸術は爆発だ!」という言葉も、個の爆発という現象そのものはもちろん、その破片(エナジー)があらゆる方向に飛び散って「自由」を獲得していくさまを表現しているのではないかという見方もできるよね。
作者の設計限界を大きく離れて自律した自由度を獲得した作品はもちろんテクノにもたくさんあって、ベーシック・チャンネル(モーリッツィオ)の9番やM4、M5をはじめとして、Gマン(ジェズ・ヴァーレイ)の「quo vardis」、ヴィラロボスの「fizheuer zieheuer」あたりが個人的にはすぐ思いつくところだし、もっとベタなところで言えばデリック・メイの「strings of life」だってそういうレコードのひとつに数えられるだろう。
作者はかならずしもその作品(トラック)についてすべてを把握しているわけではない。とりわけサウンドそのものの質が作品の性格においてダイレクトに影響するテクノの場合、サウンドのあらゆるディティールに集中していく作業を重ねて行けば行くほど、思わぬ偶然性の要素が入り込んでくる。しかも、テクノはマシーンが演奏するものだから、偶然性という要素が入り込む余地は非常に多いと言えるはず。
しかもテクノの場合、レコードをミックスしプレイするDJという存在がその音楽の自由において大きな推進力となる。先に述べたベーシック・チャンネルやGマンのレコードは、DJたちがミックスしてプレイされることによって大きな自由度を与えられたトラックの典型だと言ってもいいだろう。音楽の自由度が作者そのものよりも受け手(ユーザー)側の解釈に委ねられ拡大していくという特徴はテクノ固有の魅力だ。テクノにおける匿名性という側面も併せて考えると、これはじつに興味深いんじゃないかな。
まあ、すべてのテクノのレコードがこうしたスペシャルな性格を持っているわけではなく、テクノにおける自由度や革新性はそれを規定化するフォーマットとの表裏一体のもとに存在しているんだけど、そのあたりの話はまた次回に。




