thought about by humans, performed by machines, played on record players. vol.1

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ひとくちに「テクノ」と言っても、いまやいろんな種類やスタイルのテクノがあるわけで、なにをもって「テクノ」と定義づけるかという点についてはひとそれぞれの、かなりパーソナルな意識に委ねられている。とりわけ2000年代に入って以降、テクノとハウスが4/4という極めてユーティリティ性の高いプラットフォームを共有し、複雑としかいいようのない交配を重ねてきた現代においては、その定義付けの困難さはなおさらだろう。

ある人はリッチー・ホウティンのようにその時代毎に最新のテクノロジーを駆使して表現するスタイルこそがテクノだ、と言うだろうし、他の人に言わせればトビアス・フロイントやnsi.のようにピュアなアナログ環境で制作すること自体がテクノだ、いや、URやマッドマイクの精神のあり方こそがテクノだ…云々、テクノロジーや制作環境、果ては精神性といった多面的な文脈が入り交じり、けっきょく議論は平行線のまま終わる。

これはけっこう文学でも同じような構造で、漱石こそが日本文学最高峰だと言う人もいれば、いや鴎外だ、春樹だ…などという議論があってもおかしくないんだけど、おそらく現代にあってはそのような議論をあえてする人たちはいない。もしそんな人たちがいるとしたら、彼らは自身が文学についてなにもわかっちゃいないという事実を裏返しで証明しているにすぎない。

というのも、日本文学(べつに日本にかぎらないんだけど)のように成熟したカルチャーのなかではそうした定義付けを行うこと自体が無為なことであると了解されているし、定義付けという作業が遠因的に小説本来の自由さを阻害してしまうことを知っているからだ。議論し評価すべき対象は、いまそこにある作品そのもの質であり、固有の文体となって表出したその作家の思考の痕跡なのだ。

話をテクノに戻そうかな。文学同様に、テクノも人間が肉体性・精神性の両面を駆使して思考し、それを特定の音の輪郭やグルーヴといった現象としてアウトプットしたものにすぎず、僕らはそれをレコードプレイヤーでプレイしたり、パーティで共有して楽しむという、じつに自由でシンプルな魅力がある。音楽は過去/現在/未来に遍在していて、それらがすべて並列に繋がったまま広がっていく感覚は果てしないほど豊かだ。田中フミヤにしろ、リカルド・ヴィラロボスにしろジップ、ダニエル・ベル、ヤン・クルーガーといった人たちにしろ、「いいDJ」と呼ばれる人たちはおしなべてそうした音楽ならではの豊かさを直観的に理解している。

音楽を芸術表現たらしめている抽象という次元は定義付けという作業のなかにはなくて、心の中にある茫漠としたイメージのなかにしか存在しない。そうした抽象の次元の中でさまざまな時間軸を横断しながら拡大する広がりのなかに、おそらくテクノの自由さもある。

今回、唐突にHigherFrequencyでのコラム執筆のお話をいただき、「僕みたいな海のものとも山のものとも知れない男になぜ…」と、やや当惑もしていますが、その英断に感謝しつつ、テクノを取り巻く自由さをざっくりとした大テーマに掲げて、多面的にすこしづつ書いていければいいなと思ってます。たぶん横道に逸れることもあるかもしれないけど、よろしくお付き合い願います。文学の話はもうしません、たぶん。
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kohei [tresur]

とりわけミニマルなテクノやハウスを媒介に、ルーディな横揺れグルーヴとストリップ・ダウン気味の剥き出しファンクを座標軸として密度の高いオープンな時間の流れを捻り出すテクノDJ。

op.disc / TOREMA RECORDSのリリースやパーティに関連したテキストを担当したり、Fumiya TanakaやAOKI takamasaをはじめとしたアーティストのオフィシャル・バイオグラフィ、アルバムライナーノーツを手掛ける文章書きとしても活躍中。

2011年4月より岩城ケンタロウ、真柄ケイタと共に大阪Sunsuiでの新たなレギュラーパーティ『tresur』を立ち上げ。

http://tresur.tumblr.com
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